ざく、ざく、ざく・・・。
枯葉が落ちているアスファルトに響く足音が異様に重い。
「・・・・・」
「・・・・・」
なぜか、彼女を家まで送る羽目になった俺。
保健の先生は二人の間の空気を察知して、俺にこう命じたんだ。
『彼女を家まで送るんなら、担任の先生には上手いこと言っておいてあげる』
勘がいいのか悪いのか・・・・もちろんそんなこと断りたかった。
けど、送らないと何を言われるか分からなさそうなその雰囲気と気迫に押され、仕方なく・・・。
今さら沈黙をどうにかできるわけもないし、気まず過ぎて本当にどうしていいか困る。
最初小声で断っていた彼女も保健の先生になにか耳打ちをされて、今俺の隣で歩いてる。
「・・・・たま・・・かったんですか?」
平日の昼間、車も通行人もほとんどいない時間帯の住宅街の歩道。
静かすぎるくらい落ち着いた界隈だからこそかろうじて聞こえた質問に、それでも全ては聞き取れず「え?」と聞き返した。
「・・・・っき、頭痛って・・・」
「あ、あぁ〜・・・。うん。ちょっと、ね」
「・・・・・」
「・・・・・」
――再び、訪れる沈黙。
・・・・・これ以上、最悪なムードになることはない気がする。
だったらもういっそのこと謝って・・・、でも、謝ったからって何なんだろう。
謝って『やっぱり樋口さんじゃなくてモトカノのところに戻ります』とでも?
それとも『こんな俺で良かったら付き合って』とでも?
(・・・・・だめだ。なんにも言えることがねぇや・・・・・)
自分の気持ちすら分からない状態の中で、彼女とこうしているのは居心地が悪すぎる。
彼女の気持ちが、・・・・自分に向いているのかもしれないと感じているだけに。
「あ・・・あのさっっ」
もうここで帰ろう。
彼女の足取りはしっかりしてるし、涙も止まっているようだし・・・今、俺が家まで送る必要なんてないはずだ。
そんなことを告げようとした瞬間、彼女が俺を見上げてきた。
「・・・・・も、ここで、いいです」
「・・・・あ」
言わなきゃと思っていたことを先に言われて、俺はカッコ悪い情けない声しか出なかった。
「・・・せんぱい」
「・・・・・は、はいっ」
なぜ俺が敬語になってしまってるんだ。
つい襟を正してしまいたくなるような毅然とした彼女の雰囲気に気圧される。
「・・・もう、これから送り迎え、してもらわなくても、大丈夫です」
「・・・・・」
「・・・彼女、さんと、仲良くしてください・・・」
「・・・・・」
「じゃあ・・・」
昨日の夕方と同じ、意志を持った瞳が俺を射抜いて、それからサラリと髪の毛が靡いた。
くるりと向きを変えて、その場を立ち去ろうとする彼女。
呆然とただ眺めるだけの俺。
2,3m離れたところで彼女はつ、と立ち止まりゆっくりと振り返って、
いまだそこに俺が立ち尽くしていることを確認して、ふわり、と微笑んだ。
天使みたいな、微笑み。
「も、だいじょうぶ、ですよ?」
「・・・・・・」
何も言えない。
何も言うことがない空っぽの自分が、今どんな顔をしているのかも分からない。
半分無意識に、頭をガシガシとかきむしった。
彼女は微笑んだままで、それから。
・・・一筋だけ、ぽろり、と涙をこぼした。心臓がギクリ、とひくついた。
「・・・・ちよこ、っていうんです」
「・・・・へ?」
「名前。ほんとうは、ちよこ、っていうんです。」
「・・・・・・」
泣いているのを目の当たりにしたことと、言っている意味も分からないのとで戸惑う俺に、彼女は続けた。
「おとうさんと、おかあさんが、つけてくれた名前。"茅代子"って、いうんです。」
――それじゃあ。
角を曲がって消える彼女の後姿は、もう迷いも何もない足取りに見えた。
・・・俺はそれ以上を聞き出すことも出来ないまま。何も言えないまま、やっぱり、そこに立ち尽くしていた。
ぼんやりとしたまま、歩いて家に着いた。
鞄をほおり投げて、リビングのソファにドサリとへたり込む。
脳内はクエスチョンマークでいっぱいだった。
―――お父さんと、お母さんがつけてくれた名前・・・。
すんなり言葉のまま取るのなら、改名したってことなんだろうか。
・・・そういえば。
叔父さんと叔母さんと一緒に住んでるっていうのは、養女になったってことなんだろうか?
俺が知っている彼女の情報は、小さいころに両親がいなくなったことと、
高校生になってから叔父さん叔母さんと一緒に暮らしてるってことだけで、
それまでどうやって暮らしていたのかまでは聞いてなかった。
彼女の天然っぽいのんびりしたところも最初はそういう性格なんだ、としか思わなかったけれど
保健の先生の"事情"という言い方で、初めて考えさせられた。
彼女の今までの環境を、あまり深く考えてはいなかった。
恵まれた境遇ではなかったことを感じさせない穏やかな空気がそうさせていたのかもしれないけれど、
(・・・おれ、軽すぎ・・・)
彼女から向けられたなぞなぞのような言葉が、意味は分からないのに心ん中にざっくり刺さって、
自分が彼女に向けていた感情のあまりの軽さに申し訳なさだけが沸いてくる。
彼女とケンカしてフラれて、ちょっといいなって思っただけで「好き?」なんて聞いて・・・。
俺、バカみてー・・・。
樋口さんは、そんな軽い気持ちで声をかけちゃいけない子だったんだ。
失恋の痛手でとりあえず、なんてしちゃいけない子だったんだ―――・・・・・。
「わっヤダッ、いたの??も〜ビックリした〜!」
いきなり声がして顔を上げると、仕事から帰ってきた様子の母親が立っていた。
「早退してきたの?」
「・・・・ん」
「どっかツライの?熱でもあるの?」
「・・・・まぁ、そんなとこ」
「じゃあ部屋で寝てなきゃダメじゃないの。こんなとこで座ってたって治らないわよ」
「・・・・うん」
・・・・ど反省モードに突入して、すっかり時間を忘れてた。
時計を見ると3時過ぎ。母親は今日も時間通りにパートから帰宅しているようだった。
あ〜ビックリしたぁ、とぶつぶつ言いながら上着を脱いでダイニングの椅子に引っ掛けて、
代わりにチェックのハートのアップリケが何枚かあしらわれた、少女趣味なエプロンをかぶる。
「薬、いる?」
「いや、いい」
「そう。受験生なんだからあんまりこじらせないでね」
「うん・・・なぁ、かーちゃん」
「なぁに?」
帰ってきてエプロンをしめて、とりあえずコーヒーを飲んで一服・・・というのが日常の流れなのか、
インスタントコーヒーの瓶とカップを手に持ったまま振り返った母親に俺は聞いてみた。
「学校、でな。小さいころに親なくして、今親戚の家で暮らしてる子がいるんだけど」
「うん」
「その子がさ『本当の名前』つって、最初に聞いた名前と違う名前を教えてくれたんだけど・・・それって改名したってことだよな?」
「・・・うーん。そういうことになるんでしょうねぇ」
「だよね・・・。さんきゅ」
「そんな子がいるの?」
「うん、・・・下級生、だけど」
「そうなの。で、それがどうかしたの?」
「いや。なんでも」
母親は「ふーん・・・」と肩をすくめて引き出しからスプーンを出して、カップに粉を入れはじめた。
「飲む?」と聞いてきたので頷くと、俺のマグカップを出してきて同じように粉をいれる。
こぽこぽ、とポットからお湯が出てきてカップの中に注がれる。
苦味を含んだ香ばしい香りが部屋に漂い始めた。
「どうぞー」
「どーも・・・」
ダイニングテーブルにコトン、と湯気の立つカップを置かれてなんとなく椅子に腰掛け、
母親と向かい合わせでブラックのコーヒーを飲む。
母親は自分のカップにさらに砂糖を2杯ほど追加して、スプーンで黒い液体をかき混ぜながら俺に聞いてきた。
「・・・その子、養子になったのは最近?」
「高校からこっち来たって言ってたから、たぶんそう。・・・なんで?」
「ん〜、大きくなってから名前変えるのってちょっと珍しいなって思ったの。」
「そうなの?」
「私も詳しくないけれど、なんとなーく?
だってね、小さい子供のうちなら名前変えても当人も・・・何ていうのかしら、違和感少なくてすむんじゃないの?
赤ちゃんのうちに貰われて、改めて新しい名前つけられてっていうのならまだ分かるけど。
高校生になってからってねぇ・・・前の名前で呼ばれてた期間が長いほど、ちょっと馴染みにくいんじゃないかしら」
「あぁ・・・なるほど」
「なーんか、親子揃って改名づいてるわねぇ・・・」
「へ?」
母親はふー、とため息をついて、「こういうのってついてるって言わないかなぁ」と独り言をもらした。
肩をパキ、パキ、とリズミカルに鳴らしてから再び話し始める。
「職場でね、何度かお見合いしてやっと縁談がまとまって喜んでた子がいたのよ。
年齢的にちょっと焦っててね、相手の人もいい人だったからってそれは嬉しそうで」
「うん」
「でもね、先週なんかものすごく悩んでて。
どうしたの?って聞いたら、結婚するなら名前を変えてくれないかって言われたんだ、って言うのよ〜」
「名前?」
「そ、苗字じゃなくて"名前"。
何でも親類の人に似たような名前の人がいたとかでね、ややこしくなるから違う名前にしてくれって。
新しい名前の候補まで決められて持ってこられたんだって。」
「・・・そんな話、あるんだ」
「私も初めて聞いたわよー、すっかり驚いちゃったわ。そんなこと言うお家があるの?って。
それに一緒に住んでる家族で似た名前だからっていうのならまだしも、
親類に似た名前あるから改名しろだなんて、なんかもう、先々苦労しそうな感じがプンプンするでしょう?
いくら旦那さんになる人がいい人でもそんなとこやめとけって皆で言ってるんだけど」
母親は眉根をしかめながら、ずずず、とコーヒーを飲んだ。
「せっかく親から貰った名前を変えるなんてねぇ・・・。
結婚して姓が変わるのは仕方なくても下の名前まで変わるなんて、まるで今までの自分を否定されたみたいじゃない?
今の世の中、そうまでして結婚しなくてもって私なんかは思うんだけどねぇ。」
「今までの自分を、否定・・・」
「そうよ〜、あんただって今さら"辰則"以外の名前で呼ばれたら居心地悪いでしょう?
いくらお父さんが巨人ファンで勢いでつけた名前だからって。」
そうだった・・・。
長男で初孫だった兄貴の名前をそのときまだ健在だった爺ちゃんが夢とロマンを携えて搾り出してつけたのにたいして、
5年もあとに産まれた次男の俺の名前は、父親が熱狂的な巨人ファン、原辰則命だからということで"辰則"とつけられた。
原監督には悪いけど聞くたびにちょっとだけガッカリする由来だ。
でも、そんな俺のことは置いといて。
彼女が俺に『お父さんとお母さんがくれた本当の名前』を教えてくれた理由。
それがほんの少しだけ分かった気がした。