―――さい、あく・・・・・・・・・・。
声は出なくてただ脳みそん中で、ただそれだけ。
金山がそっとドアを閉めながら出ていって、戸の閉まるカタンとかバタンとかいう音で一斉に周囲がほっと息をした感じだった。
奈保は俯いたままだし、女どもも反撃してくる様子もない。
「帰る」
誰に言うでもなく俺はそう言って、机にかかっていた鞄をひったくるように持って教室をあとにした。
廊下に出てすぐ、誰が発してるか思い当たる絶叫が聞こえてきて自然とそれとは反対方向へ足が向かう。
階段を下りる途中で次の授業を担当している教師とすれ違った。
「青木。どこ行くんだ?」
「・・・体調、悪いんで保健室寄って帰ります」
「風邪か?」
「・・・はい」
県下でも有数の進学校と呼ばれるこの学校では、堂々とサボる奴はかなり珍しい。
特に1組、2組に入る奴らはサボったりなんぞしたら内申に響くから必死だ。
けど俺のいる3組はそこからこぼれ出ちまったクチで1、2組のクラスのやつよりは若干気楽なムードだ。
たまにこうやって帰るやつもいなくはない。
それでも俺の表情が硬いのを体調が悪いと本気で勘違いしたのだろう、
担当の教師は「気をつけて帰れよ」と声までかけてくれた。
若干後ろめたかったけどそのほうが都合がいいと思って「うっす」と返事をした。
保健の先生は、とても話のしやすい人だと思う。
たぶん他の学校の保健の先生よりも若いんじゃないかと思う。
30代半ばの少しむっちりした体を少し揺らしながら歩く姿はちょっとだけエロい。
エロい保健の先生なんてAVの世界でしか見たことがなかったけれど、実際マジでいるんだと入学当時ちょっと感動した。
ただ性格はかなりオトコマエで、その容姿の割には学内であまり話題になっていない。
「ホントに頭痛いのぉ?」
「・・・・はい」
「んも〜っ。そこで寝てて、どーしても帰りたいならまた言って。今日だけだからね?」
さすがに保健の先生にはごまかしがきかない。分かった?と小さい子供に言い聞かせるように睨まれた。
元々仮病すらする気もなくてそのまま帰ろうとしてたんだけど、保健室寄る、と言った手前行かないとマズい気もして。
自分の小市民ぶりに悲しくなったけれど保健の先生がこの人でよかったと思う。
「ありがとうございます」
「体育会系は挨拶だけはいいわよねー。」
俺は奥に二つ並んだベッドの片方に押し込まれた。
続けざまにぽい、と冷えピタの袋が投げ込まれる。
「カーテンはしないでね〜。気がついたらいなかった、とか嫌だし。」
「はい」
「何があったか知らないけど、これで味を占めちゃダメよ〜」
保健の先生は事務机のほうへ戻っていった。
キィ、と椅子に腰掛けるような音。
コリコリ・・・とボールペンか何かを動かしているような音だけが聞こえる。
シン、とした空間。
俺は冷えピタの袋を空けて額に貼り付け、目を閉じさっきの状況を思い起こした。
・・・奈保の、立ったまま俯いた姿がまず現れる。
奈保とその周りの友達の中では、俺と奈保の関係がまだ終わってないってことになってるようで、
それを急に水戸黄門の印籠みたいに目の前に突きつけられた・・・そういう感じだった。
(俺なんかいらねーって、言ってたじゃねーか・・・)
よく分からなかった。周囲の言っていることも、奈保の気持ちも。
『私のことなんだと思ってるの?!Hするためだけに付き合ってるの???』
ケンカをしたときに怒りながらボロボロ泣いてた奈保の顔が思い出された。
怒りにつり上がった瞳が涙でキラキラして、目のふちは赤く染まってて、
傷つけたことは分かってもなだめることが出来なかった。
でもそれはすぐ、樋口さんの驚いた表情へとシフトしていった。
目をまん丸に見開いて俺を見つめて、それから少し悲しげに揺れた(ような気がした)表情。
彼女があれを見てどう感じたのか・・・。
(俺は、どっちを好き・・・なんだ?)
奈保にフラれて、すぐに出会った可愛い女の子。
ちょっと反応は遅いけれどいい子だし、そばにいて苦じゃなかったし。
でも樋口さんといる間でも、俺はずっと奈保のことが頭から離れなかった。
すぐ忘れられるなんてそりゃ思ってはいなかったけれど・・・。
・・・・・・考えれば考えるほど、頭がオーバーヒートしそうだった。
カラガラガラ―――・・・・・。
「あら、また頭ぶつけたの?」
「・・・・・」
オーバーヒート寸前になりながらも俺は俺自身の気持ちに整理つけようと必死だった。
そこで引き戸が開く音がした。
女の子のか細い声が保健の先生に対して何か話しているのが聞こえる。
声が小さすぎて、何を言っているのかはまったく分からない。
「・・・とりあえず少し休んでいきなさいな?お茶でも飲む?」
「・・・・・」
カラカラ――・・・、パタン。
年季の入った引き戸が丁寧に閉められる音がする。
「そのへん適当に座ってて〜。紅茶でいい?」
「・・・・い」
開けられたカーテンから、その女の子の背中だけが見えた。
小柄すぎる背中をロングヘアーが半分ほど覆っている。
(え・・・・)
今まで一度も染められていないような、全体的にふわりと柔らかそうな髪・・・その感じに見覚えがあった。
(樋口さん・・・か?)
「何があったの〜?そんなに泣いたらあとが大変よ?」
「・・・んか、止ま・・・なくて・・・。」
「う〜ん・・・、失恋でもした?」
背中がぴくん、と硬直した気がした。
ゆっくりと首が傾げられて、さらりと片側になびくロングヘアー。
「・・・・い・・・」
―――・・・バクン。
耳のそばで、自分の心臓の音が大きく打たれた。
手にじんわりと汗が滲む。
ロングヘアーの声の主は相変わらずか細い声で、少しだけ泣きじゃくっているようだった。
「そう・・・たい、で・・・。」
「みたいって他人事みたいねぇなんか。・・・本当に好きだったの?」
「・・・かんない、んです。気がついたのは、さ・・・きで・・・、・・・きなんだ、ってお、・・・ったら・・・みだ、とまんな・・・」
「もしかして・・・初めて人を好きになったの?」
「・・・は、・・・っ」
キイ、と椅子が動く音がする。
「そのタオル使って〜。」
「・・・・・い」
ぐすっ、ぐすっ・・・。
嗚咽が背中を揺らして、長い髪も揺らしていた。
「きっとビックリしちゃったのねぇ、急に気がついたから。とりあえず好きなだけ泣いておきなさいな」
「・・・・・」
「さっきはあとが大変って言ったけれど、泣くことは悪いことじゃないのよ?
そういうときは、泣くだけ泣いてスッキリしたほうがいいわ」
「・・・・・・・い・・・す、・・・ません。・・・こんなことで・・・ほけ・・・しつ・・・来て」
「いいえ〜。お家帰りたいなら帰ってもいいけど、ここで涙止めてからのほうがよくない?」
「・・・・・」
「これでも生徒の事情は把握していますよ〜?1年1組の樋口茅代さん、でしょ?」
(・・・・やっぱり、彼女だった)
大方そうだと思っていても、認めたくないとどこかで拒否していた自分がなんだか、情けない。
「といっても、担任の山形センセと仲良しなのもあるんだけどね。
あ、仲良しっていっても私の旦那と山形センセが同期だからってだけなので、誤解しないように。
というわけであなたの事情は知ってます。だから、落ち着くまでここにいたらいいわ」
「・・・・・」
「さ、温かいもの飲んだら少しは落ち着くわ。飲んで飲んで」
どことなくほのかに甘い紅茶の香りが鼻をくすぐった。
"事情"というのが、彼女が叔父さん叔母さんと一緒に住んでいることを指しているのは、俺でも容易に想像がついた。
ほんわりと、何事も流れのままに受け止めていきそうな彼女だけれど、
やはり自分の両親ではない人たちと一緒に暮らすというのは、気を使うんだろうな。
むしろそういう身の上だったからこそ、そんな風になってしまったのかもしれないな、と思う。
「・・・・・おいし、い・・・ですね」
「でしょでしょ〜。なんとなーく、精神的に疲れたときにはいつもこれ飲むんだけど、いいでしょ?」
「・・・はい・・・薔薇が・・・入ってるんですか?」
「おっ、分かるんだ?紅茶好きなの?」
「・・・はい」
「そっか残念っ!それを先に聞いておけばよかったなぁ〜。
透明のポットで入れてあげられたのに。ポットの中で薔薇の花が咲くのよ、このお茶。
紅茶って好きでいつもネットでまとめて買うんだけど、これは外せないのよ〜。
味もいいしちょっと気分いいのよねぇ、贅沢なひとときって感じで。」
「・・・お店って『ルピシア』ですか?」
「そうそう。樋口さんも買ったことある?」
「はい、たまに、ですけど・・・叔母が、一度京都のお店で『バースディ』って名前のを買ってきてくれてそれ以来・・・。
でも、どれを買っていいのか分からなくて、いつもバースディかアップルティ、なんですけど・・・」
「そうなんだぁ。・・・えーとねこれ『ゆめ』って名前。今度買ってみて?」
「はい」
「あ〜そうだっ、すっかり忘れてたや・・・・お〜い、君も飲む?頭痛の受験生」
背中だけだった樋口さんが驚いたように振り向いて、ばっちりと目が合う。
瞬間彼女との間の空気がピシリ!と音を立てて固まったのが分かった。
そのときほど、時間が止まってくれるかタイムトラベラーの能力が自分にあればと強く思ったことはなかった。