俺の"花粉症"は、日が経つにつれて徐々に落ち着いてきた。
やっぱり、大和のように分け隔てなく接するなんて器用なことができなくて、結局女の子からの扱いも元に戻ってきたのだった。
正直ホッとしている。モテるというのは、想像以上に俺には困難なものだった。
そのかわり。大和に今特大の"花粉症"がとりついている。
「せんぱ〜い!!」
その花粉症は五十嵐さんと言って元々篠塚の彼女だったらしい。
何でも大和に一目惚れをして、彼女がいるといってもずっとつきまとってくるらしい。
けれど大和があまりにも上手く逃げ回るため、昼飯どきになると研究室にまで押しかけてくるようになった。
「げ、来た!」
今日も大和はそういって、つながっている隣の部屋にスルリと逃げ込んでいった。
あ〜・・・また逃げた。毎回同じ手は通用しないだろうに。
そして案の定。
廊下でつかまえられた大和は五十嵐さんと口論になっている。
「先輩!なんで逃げるんですか!」
「行かねーっつってんのにしつこいからだろ!」
「あきらめないって言ってるじゃないですか!」
どっちも譲らないのがそもそも問題のような。
あと昼休みで皆食堂に行っているとはいえ比較的女っ気の少ないゼミ生ばかりのいる界隈の、音の響く廊下で大声で言い争ってるのもちょっとどうかと思う。
「だーっ!!もう我慢できねー!俺はお前なんて嫌いなんだよっ」
「ひ、ひどいっ・・・!」
「どっちがひどいんだよ・・・」
会話が止まり、そこで廊下は静かになった。しかし不気味な静けさがかえって恐ろしい。
―…おい、お前様子見てこいよ
―…なんで俺が行かなくちゃなんねぇんだよ、お前が行けっ
俺を含め修羅場というものに縁のない、けれど事の真相を知りたがっている面々から目配せされ結局俺が様子を見に行くと、
(あちゃ〜・・・)
五十嵐さんが廊下で泣いていた。
すらりと伸ばされていた背を、今はかがめて、手で顔を覆うようにして泣いている。
部屋にいた時には聞こえなかった小さな嗚咽と、それに合わせるように微かに震える肩が切ない。
(大丈夫かな…)
強引すぎる手段にも臆さないタイプだと知っていても、やはり女の子が泣いているのを見るのは居心地が悪い。
アグレッシブすぎる彼女も彼女だけど、堂々とやりあってしまう大和にも非はある。
けれど大和は平気そうに
「おう、ヒカル。ちょうどよかった。外出ようぜ」
「えっ・・・ちょ、ちょっと待てよ」
俺の腕を掴むと、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。
階段を下り、どうやら学外に向かうらしいと分ったところで俺は口を開いた。
「…いつもあんな風に置いてっちゃうのか?」
「いつもって何だよ」
途中で外された腕を擦りながら問いかけると「悪いことしてるとは思ってるよ」という返事。
スタスタと先を歩いて行ってしまうので自然と追う形になる。
「けど。あんなのいちいち間に受けてらんねぇよ。あぁでもしないとずっとついてくるだろ」
「でも篠塚の気持ち考えると・・・」
さっきの状態では、篠塚のいる研究室にだってガンガン響いているだろう。
元の彼女が廊下で別の男に泣かされているのを知るのは、相当きついことだと思う。
「・・・んなことは、分ってんだけどさ」
俺だって好きでやってるわけじゃねぇし。
憮然としていてそれ以外の感情は読めない。が。
「だからってな、一緒にメシ食ったらそのあとがさ…もっとすげーことになりそうじゃねぇか」
「まぁ。それは確かにそうだけどさ」
「だろ〜?あ〜でも、もっとちゃんと決着つけてやったほうがいいのかな〜」
大和は近くの喫茶店に入り、席に着き頭を抱えた。
そして注文を取りにきた店員の顔もメニューも見ずに「Aランチ!」と言うとタバコを吸いだした。
慌ててメニューをちらりと覗いてBランチを注文して、水を飲みながら言った。
「どうやるの?」
「それがわかりゃ苦労しない。そう思うだけ、だな。
俺だってあんなやり方はしたくねーけど、あんだけ断っても断っても来るっていうのは・・・」
「本人が納得しないかぎりはちょっとムリっぽいよね」
「ワガママだっていうのは篠塚から聞いてたけど、聞いてた以上だわ〜」
(話、してたのか)
女性関係には疎い奴らの集まりでも大和と篠塚の関係を慮って公には口にしないが、彼女が押し掛けてくるようになって以来二人が会話をしていないことはゼミの誰もが知っていた。
なので少し驚いた。一体いつ会話をする間があったんだろうか。
「他はなんて言ってたの?」
「いや、気ぃ強いから気をつけろって。そんだけ。最近は話しづらくてな・・・向こうも俺のこと避けてるっぽいし」
「俺、話聞いてみようか?聞いてどうなるってもんでもないかもしれないけど・・・」
「う〜ん。もう、あんまり巻き込みたくないんだけどな」
避けたい気持ちもあるだろうし、周囲の反応を考えると二人が気軽に話すことはしばらく出来ないかもしれない。
それでもここまでしつこく付き纏ってこられるのは…さすがの大和もしんどそうだ。
どことなく口が重たいのも、いろんな方面に配慮してのことなんだろう。
(だけど、なぁ)
「廊下であれだけ騒いでいる時点でそれはもう無理じゃないか?」
あれでは巻き込んでいるのも同然だ。
大和は、俺をちょっとだけ見つめてから両手を軽く上げた。
「だ〜よ〜な〜・・・。対処法があれば聞いておいて」
(降参のポーズが出るほど弱っているくせに、こんなときはすんなり頼ってこないんだな)
「分かった」と口にしながら、俺はそんなことを思っていた。
「こんなことがなけりゃ鞠を食堂につれてこれるんだけどな〜。今連れてきて・・・」
「五十嵐さんがそれ見たら間違いなく血の海だね」
ヒカルは苦笑いしながらそう言った。
実際笑いごとでは済まないだろうけれど、彼女が学校とは無関係な場所にいるからこそ言える冗談だ。
「鞠にはまっっったく、関係ないからなぁ」
大和は力を込めてそう言うと、グラスの水を一気飲みした。
「言ってないの?」
「言うわけないだろ、心配かけるだけだし」
「そうだね・・・」
俺は夕方、廊下で歩いている篠塚に声をかけた。
「篠塚、ちょっと話があるんだけど」
「彩香・・・五十嵐のことか?」
「うん、聞こえてただろ昼の騒ぎ」
「あれだけ派手な騒ぎじゃな・・・」
篠塚は苦笑いしヒカルを人気のない教室に誘った。
紙パックのコーヒーを二つ買いヒカルにひとつ手渡してくる。
「あいつ、一度思い込んだらもう一途なんだよ。俺のときもそうだったから。
あの性格だからか、友達も少なくて・・・。伊藤に優しくされて嬉しくなっちゃったんじゃないかな。
しかも伊藤って絵に描いたようないい男じゃん?ホロッときちゃったんだろ」
「あぁ・・・」
「伊藤のやり方は間違ってないと思うよ。彩香はあんなだから、あぁするしか振り切る方法ないかもって俺も思う。
一度ほだされちゃったら余計彩香が苦しむだけだと思うし、かといって彩香から納得して引いたりはしないよ」
篠塚なりに彼女の性格に苦労してきて得た結論なんだろうが、その冷静さに少し驚かされてもいた。
「そうなんだ・・・」としか言えない俺に苦く、口元を無理に歪めたような微笑を浮かべる篠塚は、俺の知ってる篠塚とは違っていた。
「でもあの二人、ちょっと性格似てる気がして思わず笑っちまった。
あんな風に同等に彩香とやりあえるなんて伊藤も相当ワガママってゆーかなんていうか」
思い出し笑いに近い苦笑い。
ヒカルもそれにつられて少し笑った。
「大和もなかなか折れないからね」
「まぁあれだけ折れないのもマリちゃんを思ってのことだろ?でなきゃもう少しマシな手立て取ってるだろうに。
かえって俺がいることで気ぃ使わせてるよな、あいつには」
そんなことはないと言ってやれないのが辛い。正に篠塚の言うとおりだった。
篠塚の元カノというのがなければ、仲山さんという存在がなければ、大和はもっと冷酷に五十嵐さんを切っていただろう。
もしくは…もしかしたら五十嵐さんは今より傷つく可能性もあったんじゃないだろうか。
俺が知っている以前の大和は、来るものを拒むことはほぼ、なかった。
何が一番良かったのか、今の時点では分からない。
そんなことを考えていた。
「なぁ、お前はどうなの?」
「えっ?」
「好きなんじゃないの?マリちゃんのこと。この間飲んでるときそんな感じしたけど」
予想もしてなかった言葉。言われた瞬間、心臓が軋んだ。
憐れむような視線を投げかけられ、更に苦しくなる。
「・・・いや、そんなことないよ」
そう言うのが精一杯の俺に、篠塚はそれ以上追及してはこなかった。
「そうか?ならいいけど。つらくないのかなって心配してたんだ」
「・・・ありがとう。大丈夫だ」
篠塚はニッと笑った。
それは俺の知っている篠塚独特の笑い方だった。大和曰く「スネ夫みてぇ」な笑い顔。
「俺は平気だって伊藤にも言っておいてくれよ。仕方ないことだし、新しい出会いでも探すから。お前もあんまり悩むなよ」
「うん・・・」
篠塚が去ったあとも、俺は教室に残りぼんやりしていた。
(隠してるつもりだったけど、バレてたのか・・・)
一緒にいると、どうしても目で追ってしまう。
あれから時々、発作のようにヒカルは自慰をする。
それは以前のようにAVを見てどうこうするものではなくて相手はすべて妄想の中の彼女だった。
妄想の中の彼女はいつも淫らで、ヒカルだけを見つめて喘いでいる。
友達の彼女なんてとっととあきらめてしまいたいのに。
ふいに思い出すあの時の彼女の声は、今もヒカルの中から離れようとはしない。
一度相手なんて誰でもいいから抱いてしまえばこの妄想や声が薄れてくれるだろう、とは薄々感じている。
けれどこの間女の子たちに声をかけられたとき、ヒカルはそれに答えることが出来なかった。
その子たちが悪かったわけではない。ヒカルの中の、彼女の存在が大きすぎる。
比べるつもりはなくても・・・違う、違うこの子じゃないんだ、俺がほしいのは彼女なんだ、と心の奥のほうで足踏みをしてしまっている。
(くそ・・・)
こんな風に苦しいのは一人になったときだけだ。
彼女のそばにはいつも大和がいて、いつも幸せそうに大和を見て微笑んでいる。
それを見ていると、俺はこのままでいいと思える。彼女が笑っているのならそれで、と。
大和がいつになく真剣に付き合っている様子なのも分かるから、これでよかったんだと心から思っている。
けれど一人になったとき、俺の中の"彼女"が暴れだす。
本物じゃない。空想の中の彼女が俺を求め叫ぶ。安っぽく高揚した表情、煽情的過ぎる姿。
あり得る筈もないそんな幻想を、どうしても排除できない。
まとわりつく彼女の幻影に惑わされて熱を持ち膨れ上がる部分。
男として、逆らうことが出来ない本能と衝動。持っているものを全て吐き出すまでその幻影は消えることがない。
(俺は…どうしたら)
夕日も沈み薄暗い教室で、俺は佇むしかなかった。